◆ 奴隷商人 ◆ UPDATE 09.02.04
◆ 序章 ◆
「全く! 蝋引きの書字板の整理と割り符の書き写しは、インクが乾くより早くと、あれほど言い付けておいたのに!」
「罰として今晩は飯抜きだ! 帰ってきたらタダじゃ……んん??」
それは何年かぶりにわざわざ奥の工房から出向き、埃だらけの立ち並ぶ棚の列を前に、
ブ厚い羊皮紙製の帳簿の束を片手に、羽根ペンでもって一人奮闘を繰り広げている時の事であった。
どういうわけかこの時期には珍しく妙に注文が立て込み、キャラバンで出荷する品の納品書の作成が遅れ気味で、
それだけならわざわざ私がこんな所まで足を運ぶ事もなかったのだが…
この面倒な時に限って、仕事にあたっていた下人共の記憶が曖昧になり、
その上無数に並ぶ棚のどこかに大事な注文書が紛れ込んだらしく、事態をさらにややこしい事にしていたのだ。
そんな風にイラついている時だ、遠方から聞き慣れぬ派手な馬車音が3つ、近づいてくるのが聞こえてきたのは。
「こんな時分に訪う者とは、珍しい事もあるものだ…」
奴隷商へ出向いてくる客というのは、大概がいかがわしい店への訪問を恥じ、
人目を憚って宵闇にまぎれて戸をこっそりと叩くのが世の常だ。
そもそもウチの店の扉を叩くのは取引のある馴染みのキャラバンの者か、
悪くて街の自警団の者だけだ。それもほぼ定期的に。
そのどちらにしても、こんなけたたましい音を響かせて仰々しく馬車などでココへ乗つけるはずもないのだから、
この来訪者はこの地区の外からやって来たことになる。
恐らく3つ聞こえる内の2つの馬車音は、護衛か何かだろう。
それ以外にも、馬車の周りを武装した騎士を乗せた馬ででも囲ませているかもしれぬ。
もしそうだとしても、ココではなんの意味もなさぬだろうが…
「しかし……まだ陽が高いとは言え、たった2台ばかしの護衛でココへ乗り込んでくるとはな」
よほど急ぎな用向きの者か。
さもなくば、途方もない虚け者か。
「どちらにせよ、なんとも命知らずな事よ」
いかように殷賑を極めたる国の、どんなに綺麗で活気溢れる街だろうと、
足を踏み入れたくない最低最悪の悲惨な区域というのが必ず在る。
とりわけソレがここ、奴隷商地区イクブリウムと来ては尚更だろう。
ここオアシス都市エレホンは、いつの頃からか大砂漠地帯の商業の枢要で、
数々の高名な商人や勇猛な軍人の出身地でもあり、
南域の中心として長く繁栄を極めてきた八角街として、その名を知られていた。
八角街と言うのはオアシスに特有な街並の事で、不毛の大地に湧き出る清冽な命の源泉を中心に、
その辺を豪華な族長の宮殿や教会、貴族達の館や数々の亭、絵の具のように様々な色彩の花が咲き誇る庭園や、
青々とした緑に満ちた果樹園等がぐるりと囲み、
連なる街筋が水源を中心に外に向かって八方に延びる大通りを基本にして不毛の大地に築かれた都の総称だ。
このエレホンもその名の示すように、イーソス、カノサス、ジャディス、ティサリス、スタイクス、トリトナス、
キネシス、イヴィス、の四方へ伸びる道で今も昔も八区分されている。
便宜上、常時新築と取り壊しが繰り返され賑わっているオアシスの辺を新市街、
そこから一番外側の街壁に程近い地区を旧市街と呼ぶのだが、スタイクス通りとトリトナス通りに挟まれた旧市街西区は、
いつの頃からか皆が口にするのも憚る奴隷商地区と呼ばれていた。
荒涼としてまともな店も商いも無ければ、人間らしい住居も殆ど無く、
その上に自警団の一方的な暴力と奴隷商の私有地化は目を覆うばかり。
ありとあらゆる不道徳と罪の誘惑に満ちた、正に猥雑さの権現のような地区イクブリウムは、
北方のサマルカンド人や中原のバクトリア人、その他にも方々の国から流れ着いた移民と、
多種多様な最下層の人種が住みついた下層階級者の坩堝のような地区で、
街の者でも滅多に足を踏み入れぬ、昼でも陽光が届かぬ幾つもの暗いその裏路地は、
旅人が迷い込んだら二度と戻ることは叶わぬ深い闇を孕んで蠢き、
今も静かに息を潜めて新たな獲物を待ち伏せている、と新市街で人々はまことしやかに噂しているらしい。
確かにそんなイクブリウムの裏路地の一つ、通称“キャスタナルク通り”は、
典型的な地元民でしか出歩けぬ入り組んだ小道だし、当てずっぽうな噂もあながち全てが嘘ではない。
初めてここへ足を踏み入れた者ならば、ゴミの散乱した饐えた臭いが漂う、
石畳の舗装が途切れて地面が剥き出しの路面と、
半ば崩れかけの日干し煉瓦を積み上げただけな粗末な干からびた家並みの四方八方から、
隠そうとしても隠しきれずにじみ出してくるような、そんな貧困に思わず目を覆いたくなるだろうし、
見捨てられた寂しさと、言いようのない苦悶が立ち上っているように思えて落ち着かぬのも無理からぬ事だ。
威勢の良い競りや市が毎日立って賑わう新市街とは似ても似つかぬ、
割れた酒壺の破片がそこかしこに散乱する、クネクネした埃っぽい街壁近くの寂れた旧市街の小道と、
荷馬車一台通るのがやっとの狭苦しい雑然とした通りの両側に、
どれも同じに見える砂埃がこびりついて黄ばんだ朽ちかけの共同住宅が、
大昔からそこに憮然と建ち並んでいるのだから尚更だろう。
実際、生涯奴隷として酷使され続け、無念のうちに果てた者達の怨嗟の呻きが、
風にのって砂塵といっしょに方々で吹き溜まっているような場所でもあったのだ、確かに。
とは言え天気の良い時に見える、街外れの天国まで続いているように思える青空を背にして、
細かな砂の小さな渦が幾つも風で舞い上がるどこまでもウネる茶色の丘陵の向こうに、
半ば朽ちかけて砂に埋もれた古の神殿が、熱砂の上でゆらゆらと蜃気楼に揺らめいで見える様は、
まるで神話か物語の一節を描いた絵画のように見事な眺めで、一見に値する場所だと私は常々思ってはいるのだが…
「……!」
不意に、地鳴りのように響いていた轍の軋む音が止んだ。
変わって近づいてくる、聞き慣れぬ幾人もの掛け声と不規則な足音。
察するに馬車から輿に乗り換え、表の通りからこの店前の路地を不慣れに進んいるのだろう。
「やれやれ…どうやら人目など気にならぬ豪胆な御仁のようだ」
一体、どういう用向きなのか? そもそも、どうしてここへわざわざ乗り込んで来たのか?
この様子だと、まず間違いなく只の使い走りではあるまい。
とすると、買い付けに来た客人だろうか?
「……わざわざ、こんな物騒な所へ自ら?」
西の果てに在る帝都は、相も変わらずありとあらゆる産物を消費いている。
大理石や上質な木材は言うに及ばず、工芸品、ガラス細工、象牙、宝石、鉱物、貴重な香辛料、
そして膨大な数の食料が帝国の隅々から、日々運び込まれていた。
無論、この干からびた街からも、せっせと帝都へ毎月大量の品が出荷されている。
砂に埋もれた最果ての街、最大にして最高の特産品、帝都で最も需要があり激しく浪費される品、奴隷達が━━
もともと使い捨ての道具のように帝国各所で打ち捨てられる廃棄物同然の奴隷達を方々から掻き集め、
再び使い物になるよう“特別な”調整を施して売り飛ばす為に競りを行っていたのが、エレホンという街の発祥であった。
当然、小麦、砂糖、綿花などの生産品と砂の民が率いるキャラバンによる流通の発達もあって、
ここを商業都市としてどこよりも繁栄させたのも紛れもない事実であろうけれど、
こんな砂漠の胡散臭い街へ人々を惹きつけてきた何よりの原動力は、
数々の奴隷商の進出と西域諸国からの自由人の出稼ぎや、
人狩りが連れてきた奴隷を競りにかける大砂漠地帯最大の奴隷市場を持つ、
地理的にも恵まれた豊かなオアシス街であった、という事に尽きるのだ。
とは言え━━
「馬鹿な。そんな事はありえない」
奴隷の買い付けの為に、ここまで乗り込んで来るような物好きな客は滅多にいない。
余程の物好きか、やたらと細かい注文を出す五月蠅い客でさえ、数年に一人、二人希に訪れる程度だ。
大体そんな事をせずとも、街の中央市場で毎日奴隷市は開かれているし、発注も受け付けている。
いつだって安全に、そして確実に好みの品を買取る事が出来るのなら、
どうして危険を犯してまで物騒なイクブリウムへなど来る必要があろう?
「という事は、何かしらここまで来ざるおえぬ理由が、ある…?」
当然、ただならぬ理由なのだろう。
ひょっとして、旨い儲け話が転がり込んで来たのかも?
いやいや、得てしてこいういう場合は厄介事の公算の方が大きいものだ。
いつだってそうだったじゃないか、と長年の商人のカンがそう告げている。
大方、市場へ出回る前に具合のいい肉奴隷を誰よりも先に吟味したくて、
いてもたっても居られず早馬で駆けつけてきた、そんな肉に溺れた下衆な好色爺に違いない。
それともまだまともに男娼の務めもこなせぬ、いたいけな少年目当ての罰当たりな男色野郎だろうか?
いずれにせよ、そんな色事で命を失う危機も省みずイクブリウムへ駆け込んでくるような輩だ、
まともな神経も良識も持ち合わせているわけがあるまい。
そう言えば数年前に駆け込んできたあの間抜けな狒狒爺は、今頃どうしているだろうか?
手足の骨だけでなく腰骨まで砕かれて、小便垂らして泣きながら逃げ帰ったあの姿はなんとも滑稽だったな。
アレに懲りて少しは己の罪深さを悔い、年相応に落ち着いて色事は控えているだろうか?
「……いやいや、あの爺の事だ。それは無いか」
反省などせずに今頃さぞ溜まりまくったイチモツを持て余し、
無様に動かせぬ己の腰に苛ついて、哀れな奴隷達にでも当たり散らしているに違いない。
それにしても危険も顧みず思慮のない行動を引き起こさせてしまうのだから、
人の煩悩の激しさ、そしてその罪深さ、というのは本当に計り知れぬものだとつくづく思う。
トントン━━
「……おっと」
あれこれ思いに耽っている間に、店の扉が叩かれた。
普段客人の応対をさせている怠け癖のついた下人達や心利きな手代は、
遅れていた請求書を方々へ届ける使いにさっき残らず叩き出してしまったし、他の者も皆作業場へ出払っていてる。
いつもならこの時分に私がここへ居るはずもなく、仕事場の穴蔵へ籠っているわけだから、
本当に運が悪かったとしか言いようがない。
「全く。この私がわざわざ客人の出迎えなどと、いつ以来の事かな?」
賊の襲撃だろうと多少の事ではビクともせぬ、何百年とこの店を護り抜いてきた分厚い金具で縁取られた重い木戸の前へ脚を進める。
ん? なんだこの錆びは? これは蝶番に油を差しておかぬとマズイな。
それに取っ手の金具をもっと磨くようにキツく言い付けておこう。砂埃だらけではないか。
「はて、何か御用ですかな?」
扉に備えられた小さなノゾキ窓から表を覗きつつ、どんな痴れ者が来たのかと声をかけ━━
「……!?」
言い終える前に砂混じりの熱風と一緒に芳しい香油の匂いが、鼻先の木戸の僅かな隙間から舞い込んできた。
「アノ……コノ街で一番の奴隷商と聞クのは、ココでしょうカ?」
扉の向こうに居たのは、目の醒めるような若い美女だった。
この奴隷商地区イクブリウムでさえ滅多にお目にかかれぬ、とんでもなく淫らなエメラルド色の瞳な。
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