◆第一章:3 月夜の訪問者◆

扉の向こうから差し込む弦月の神秘的な銀光が、夜空を漂う千切れ雲を貫いて皓々こうこうと降っている。
そこに露を宿した薔薇の蕾のような、とんでもない美少女がいた。

薄桃色の小さな唇、切れ長の濡れた瞳、霞むような視線。
時折伏せるマツ毛が、長い。
スッと通った鼻筋の上で、微かに寄せられた眉根から伸びるラインはいたようにクッキリだ。
小粒な白い歯がこぼれる口元には、その美しさを自分でも十分承知しているのだろう、
見惚れそうな微笑みが浮かんでいる。
その美貌で強いて妙な点を探せば、濡れ色のルージュが妙に生々しいくらいだろう。

    

「……踊り…子?」

背中へ垂れる長い髪はまとめられ、筋肉の引き締まった四肢は細く長く、そのしなやかな肢体が輝いている。
暗がりでさえもその緩やかな丸みを帯びた、驚く程に滑らかそうな艶肌は、
高名な彫刻家が丹誠込めて大理石の塊から美神像を削りだしたように、とてつもない情感を漂わせていた。
完璧に手入れされた指先はしなやかで、淡い月光に浮かび上がる曲線は、
どれも滑らかな起伏が豊かでとんでもなく悩ましい。
目を奪われる豊かな双胸の膨らみから続く細腰へのラインは不自然なまでにすぼまり、
そして予想を裏切る急激さで豊に張り出した双臀へと続いていく。
圧倒的な存在感で突き出した本人の顔より巨きな、そのたわわに実った二つの頂は、
中庭の中央に備えられた噴水周りにグルリと並べられた女神像と比べても勝ってはいても、決して劣りはしないだろう。
みとれっぱなしな見事な胸に重くのしかかる、
幾重ものきらびやかな首飾りが剥き出しと変わらぬ乳房の谷間で揺れている。
綺麗な金細工の飾り鎖が腰周りで奏でる微かな音と共に揺らめく、
薄布に透けるスラリとした脚と肉感豊かな太脛ふくらはぎに触れられると言うならば、
男達は通りの彼方までひざまづいて列を成す事だろう。
その秘めたる官能を漂わす魅力を人為的な『美』と端的に表現すると少し語弊があるかもしれぬが、
ボクがよく知る砂の民の女ではない。
それだけは確かだ。

遙か北方にいるという燃えるように紅い髪の女でも、海をいくつも越えた南にいる闇色の肌をした女でも、
砂漠を越えた遙か彼方に在るという東方の草原地帯の女でもないだろう。
薄布に包まれたいくぶん陽灼けした肌は雪のように白く、
じっくり見れば幾分東方の血が混じっていると分る目と髪をしているが、
どこの国の生まれだと言っても通るエキゾチックな顔立ちだ。
といっても余り異国人風に見えないから、砂の民の血も混じっているに違いないだろう。
もっともこの街の殆どの者に、どこかしら余所の血が混じっているので珍しい事じゃない。
方々から人が集まり、行き来して居着いたりした者がこの街の住人の大半だからだ。
そんな具合だから生まれの定かでない奴隷に到っては、とんでもない僻地で狩られた民族の血が混じるのが常で、
その為時として創造の神が気まぐれを起こしたのかと思うほどの美貌を持った者が生まれてくるのだった。
目の前の娘は間違いなくそういうたぐいの者だろう。
でなければ、こんなに美しいのに街一番の物知りなボクがその名を知らぬハズがない。
兎にも角にも、ほんのりと桜色の差した肌にはシミ一つ無く、
馥郁
ふくいく
と香る花粉が蜂を誘うようにボクを惹きつけっぱなしなのは動かし難い事実であった。

薄化粧のそのかおが、大人びたようにも幼女のようにも見えるのは、目鼻立ちに独特の陰影があるせいだろうか?
そして、その醸し出す雰囲気以上にボクが彼女から目を離せぬのは、漂う色香と透け見える驚くほどの小さな衣装…
いや、申し訳程度の布切れと変わりない。
その姿態は己の裸体を最も魅力的に引き立てるように工夫されているものだ。
顔も胸部も腹も夜の闇で輝くように雪白く、白銀の月光の元で薄布からはち切れんばかりに浮かび上がっている。
目の前で佇む、この究極の美を描く曲線から目を逸らせる男は滅多にいないだろう。
━━という、殆ど裸同然の……いやそれ以上に猥雑な格好を惜しげもなく晒し、そこに静かに佇んでいるのだから。
幼さを感じさせながら、どこか大人びた美貌の下の、男を惑わす魅惑の肉体が迫ってくるようだ。
これが俗に言う、男が惑溺する肉感的なからだと言う奴なのだろうか?
銀色の静謐せいひつな明かりに浮かぶその少女のからだは、すでに成熟しきっていた。

「誰なんだい、キミは…?」

一、二、三……数秒の沈黙。

春蘭しゅんらん

もう一度、自分から歩み寄って名を訊ねようかと思いあぐねていると、美少女がそう答えた。
容姿通り、澄んだ可愛い声で。
言われてみれば今更気がついたが名前に相応しく、確かに東方風の出で立ちだ。
しっとり潤いに満ちた美貌に、夜闇を紫のベールに包み隠したような微笑が浮かんでいる。
無遠慮な男の視線に何も感じぬのか、目の前美少女は放恣に艶やかなその柔肌を晒したままだ。
濡れたように輝く艶髪は柔肌に絡みつき、しなやかな肢体は女らしい曲線を描いて、まるで誘惑するかのよう…
ネットリと甘いアーモンドオイルの香りが漂い、鼻先をかすめた。
今気づいたが、ミルクのように滑らかな肌には全く汗が浮いていない。

「…へぇ。確か遙か北東の彼方に草原の国が在って、そこの女王だか王族に同じ名前の女がいなかったかな?」

ちょっとばかり習いたての博識を示したくてそう水を向ける。
だが、ボクの覗き込むような不躾な視線を少しも気にするでも無く平然と受け止め、見返してくる。
妙に落ち着かなくなる、その潤んだ瞳で。
切れ長の目の奥には、刺すように冷徹で仄暗ほのぐらい光りがある。
その眼差しが無垢な少女のものじゃないと、さすがにボクでも気がついた。

「坊や。この屋敷のご主人、ドコにいるか教えてくれなイ…?」

片言の言葉づかい。
けれど喉を転がすような、鈴の音にも似た涼やかな声の囁き。
まるでまだヤスリをかけていない上質な白木材を思わせる滑らかさだ。
だが…

「……父なら大広間に居るよ」

残念だ。
姿形はこんなにも美しすぎる程に美しいのに。
微妙に舌っ足らずな、どこか下卑た調子のある市場の商人風な訛りじゃないか。
酒場の近くにある売春宿あたりで、この女と同業の女達が客と破廉恥な冗談を言い合っている所が想像出来る。

何故、こんな事に真っ先に気がつかないんだ。
あのおおきな乳房とセクシーな腰つきはどうみても処女のものじゃないじゃないか。
……まぁ、いいさ。媚びを含むその声が不意にカンに触ったが、一々目くじらを立てる程の事じゃない。
主人のご機嫌取りばかりしていて知らずに身に付いたいかがわしい商売女や、卑しい奴隷女にはよくある事だ。
ボクは自分の名を名乗ると、さらに歩み寄った。

「アリガトウ」
「間違いないよ。さっきまでボク自身がそこに居たんだからさ」
「坊やガ…?」
「ボクはもう坊やじゃない! このボクの為の成人の宴だったんだぞ!」
「……そう。アナタ、大人に成ったのネ」

腕輪を鳴らして婉然と笑っている、その朱唇に疲れが微かに浮かび、歪んだように見えたのは気のせいだろうか?
華奢な首を少し傾げた拍子に、耳たぶにぶら下がった無数の宝石が触れあい繊細な音を奏でた。
よく見るとゴテついた金ピカの身繕いは少々趣味が悪く、ずっしり重そうなアクセサリの値段を聞けば、
豪商の妻が嫉妬するのは間違いない。

「……アナタはここの屋敷の坊ちゃまなのネ?」
「ああ。そうだよ」

幾分、尊大に答えたつもりだったが目の前の美少女には伝わらなかったようだ。
少しだけ舌を出して朱唇を舐めて微笑む、その仕草が猫を思わせた。
天女のような、その美しいかおにまるで似合わぬ笑みだ。
背後から差す月明かりが耳元や首元の宝石をきらめかせ、
見れば見るほど作り物じゃないのか、と思える程に端正な顔立ちを浮き上がらせている。
不意に無色だった瞳が輝いて、一目見たら忘れられぬ青い目に淫蕩な秋波しゅうはがこもった。

「……!」

このをボクは知っている。
トロンとした煙るようなその濡れた瞳は、男をたぶらかし、惑わせ、そして魅了する。
官能的なその瞳の奥から放たれる蠱惑的こわくてきな輝きはどこかドス黒く、
まるで陽光降り注ぐ真昼を闇色に沈む真夜中に一転させるかのような。
その神秘の光りに溺れてしまった者は、他の事全てが灰色の世界の出来事に思えて、
己で自身の生活を粉々に打ち砕き、最後には恐ろしい破局へまっしぐらに突き進むという。
媚びへつらいながら男を誘い、意のままに操る時に見せる娼婦のだ。
だが、目の前の美少女はボクが知る娼館から遣わされた女などでは無いと断言出来る。
なぜなら、連中の一人ならば間違いなく顔にしっかりと化粧をして白粉を塗り、
こびりついた性臭を誤魔化すために没薬もつやくと香油を全身に塗りつけているからだ。
例えそうでないとしても、これ以上関わるのは止めておいた方がいいとボクの理性は告げていた。
なのにボクの脚はまた一歩、彼女へ近づいてしまう。

見知っている女なんて妹達と親戚の女達に、下々の世話をさせている奴隷女か、女郎部屋にいる淫売程度。
それどころか、こうして間近に旅芸人の踊り子をまじまじと観察するのは初めてなのだから。
いや、以前にも幾度か旅芸人が街を訪れた事はあっただろうが、まだ子供過ぎてよく覚えていないのが悔やまれる…
つまりは漂ってくる妖艶な色香と、拭いきれぬ秘められた暗い翳りとひそやかさが、ボクをすっかり魅了してしまっていたのだ。

「キミも今夜の宴に招かれている一座の一員なのかい?」
「……ええ。そうヨ」

宴の踊り子の数が足りなくなって、後から数を増やす為にこの娘を呼んだのだろうか?
それにしては、一人きりってのヘンな話じゃないか? そもそもあの用意周到な父がそんな不手際をするとは思えないが…
……なるほど、そうか。きっと彼女は何かヘマをやらかして遅れ、今頃慌てて宴へ駆けつけたに違いない。

「キミも間が悪いな。遅すぎたよ。もう宴はたけなわどころじゃない。じきにお開きになる頃合いだよ?」
「フフ……それでイイの。ワタシの捧げる“踊り”は、宴の後に必要だかラ」

一瞬の幻夢━━
奔放で渦巻く情熱のままに、男達を誘う魔性の踊りを舞う雪白い肌。
甘く響く歌声は誘うように、漂い流れる香の匂いはまるで蜜のように。
小刻みに揺れる大きな乳房、仰け反った細い首、引き延ばされて震える尻たぶ、
愉悦に濡れた目が狂喜と誘惑に輝いて。
乱れ飛ぶ髪が、きらめく宝石の如き瞳が、濡れ艶光る朱唇が、
しなやかな四肢を走る筋肉が、幾千の妖しげな姿態を描きだす。
汗まみれの肌も露わに、その身を切なくよじり、時に激しく、時に緩やかで、
両手を交差させ、回り、肩を張って細腰をひねり、
前に後に、縦に横に、変幻自在に揺れ踊る異国の踊りを披露する美少女。

「いいね。キミのようなの踊りだったら、ボクも見てみたいな」
「……どうしてココに来たのか。ワタシが何者かアナタ、分ル?」

静かに、悲しそうにそう呟くと、軽く微笑んだ。
冷たい月明かりに照らされてボクを見返すその瞳は、まるで水晶玉を眺めてあやふやな未来を探るような、
それでいてなにもかも諦めてしまったような、そんな静かな目だ。

「何者って……踊り子だろう? 今、そう言ったじゃないか」
「……そう。ワタシは、一夜限りの“夢”を捧げる為にここへ招かれた踊り子」

妙にかすれたような、冷たい声で彼女が答えた。
ボクの他愛ない質問に答えたというより、蘇る記憶の囁きから密かに目を背けるような声だった。

「??? ……まぁいいさ。でも踊り子かぁ…いいなぁ、羨ましい」
「羨ましい? ワタシの事が……??」
「ああ。だって、キミはこれまで方々を旅してきたんだろ? ボクが見たこともないような外国をさ」
「見たことが、ナイ…?」
「そうさ。ボクは生まれも育ちも、この街なんだ」
「ナゼ、出て行かないノ……?」
「それが出来るなら苦労はしないよ」
「出来なイ? アナタみたいなお金持チ、なんだって出来るのニ…?」
「確かにね…高名な詩人を大枚はたいて遠路遙々屋敷に招いたり、
 有名な彫刻家を招いて作業するのを間近に見学した事はあるよ」
「……そうさ! なんだって手に入れる事が出来る!」
「東方の珍しい布だって、西方の希な動物だってここへ運ばせる事は出来る!」
「……」
「でもね! ボク自身はこの街からは出ては行けないんだ!」

与えられたモノには何の価値もない。
己の手で掴み取ったモノにこそ価値があるのだ、とその頃のボクは思っていた。
青かったと言えばそれまでだが、誰だって若く血気盛んな頃は己の足場も知らぬまま、
わきまえぬままに、過ぎた高みを目指すものだろう?

「芸術の都と言われる西の帝都にも、創作を志す者なら一度は訪れねばならぬと言われる、
 互いの才をぶつけ合って技を磨く者ばかりと聞く、中つ海の孤島の有名な大学へも!」
「……どうしテ?」
「ど、どうしてって、それは…ボクはここの跡取り息子で、いづれ商いを手伝わなくちゃならないからさ」
「この街だけじゃない、この国では大昔からそれが常識なんだ。
 跡取りは家の商いを継ぐ者だと、そう決まってしまってるんだ!」

うだ。例え旅行だとしても1年も家を空けていたら、方々で何を言われるか分ったものじゃない。
ああ、熱砂の果ての隣都へ出向いたのはもう何年前になるだろう…

「ボクが何を言おうと、誰も彼もがそれが当り前だと、そういう風にね!」

実際には家も名誉も名さえも捨てて出奔し、諸国を放浪した後に名をあげた匠や詩人も居るには居る。
けどそれは、ごくごく希なケースだ。
そんな事をしでかした輩は間違いなく経済的に逼迫し、結局の所は現実社会から隔絶され、
最期には無惨に野垂れ死にして荒野の露となって消えていくのが殆ど。
そして、それ以上にもしボクがそんな事をしでかしたら、残された父や親族が酷くメンツを失うのは目に見えていた。
大げさじゃではなく、本当に脈々と受け継がれてきた一族の栄華もついえるかもしれない。
胸クソ悪い親族や横柄な父はともかく、姉や妹、それに優しい母にそんな迷惑をかけるかと思うと…

「……ああ、どうしてボクには妹や姉しか居ないんだ!
 どうして跡取り息子だからって、外国へ出向いてはいけないんだ! クソ!」

今にこの灰色の憂いにまみれながら己の未来を苦悩していた事を忘れ、怒りを抑圧して父の跡を継ぐのだろうか?
悶々と満たされる事ない望みを胸のうちに閉じ込めて、唯々諾々いいいだくだくと流されるままに。

「チクショウ! 何故、ボクばっかり…!」

宴の最中、親族達が交わしていた密やかな囁きが思い出される。
ボクの結婚相手の事だ。
成人したのを良いことに、じき相手も親類連中に決められてしまうのだろう。
いや、もう既に決まってさえいるのかもしれない。
相手は貴族で名家で、それとも商売敵か同業者か。
今しも花の開くような年頃の、とても愛らしいボク好みの、けれど見たこともない……
持参金は望むままに星の数、いや砂の数より多いかもしれない。
裏でどんな取り決めと約束を交わされたのか。
ソレで万事、うわついている放蕩息子の首に『妻』という逃れがたい首輪をつけられると言うわけだ。
予定通り、周りが望むように家は栄え、蔵の中には唸る程の金銀が積み重なるだろう。
そしてボクと同じように従順な跡取りを幾人か遺し、
若かりし頃の己の勇気の無さを、不甲斐なさを悔やみながら一人寂しく死んでいくのか?

「どうしてボクはずっとずっと前から、明日すべき事さえ決められているんだ!?」
「そのまた明日の事も。そのずっと先の事も…!」

何を言ってるんだボクは。
こんな素性も分らぬ踊り子風情に、こんな話をしたって何が変わるわけじゃないのに……

「アナタも、囚われ人なのネ…」
「え…?」

うっかり秘密を漏らしてしまった、とでも言うように慌てて彼女が表情を消す。
随分後になって理解したのだが、ボクが四六時中逃げ出したがっていた監獄の如きこの街も、家も、
後に知る冷酷で無情な世間と比べれば正に楽園とも言える素晴らしい環境だったのだ。
もっとも、アレから随分と時が経って情勢も状況も変った今となっては、
ようやく天国の縁でなんとかバランスを取っている危うい楽園に過ぎないのだが…

「…そうだ! キミさえ望むのなら、このままずっとここでボクの相手をしてはくれないか? どうだい?」
「キミならボクの知らぬ方々の国の事を、見聞きした色々な人々の事を色々と話して聞かせてくれるだろう?」
「……ダメ。ワタシはココにとどまれなイ」

静かだが、ハッキリとした声。
視線を逸らさず、けれど見詰め返す程でもなく、濡れ輝く瞳がボクを見ている。
隷従的な女によく見られる、力のない優しいが無力さを示す渇ききったそので。

「!? 何故だい? 親か兄妹でも一座にいるのかい?」

それとも恋人か誰かだろうか? それはあり得るな。
この女も幼そうに見えて、既に所帯を持っているとか?
身分卑しい者達は生活が逼迫しているくせに、若くして子供をつくるものだ。
ひょっとしたら、一座にこの女の乳飲み子でもいるのかもしれない。

「……チガウ」
「なに、心配する事はないさ。キミが一緒に居たいと言う人もここへとどまればいい」
「なんなら一座の連中みんなにしばらくこの街へ逗留してくれるだけの金を渡してもいい。
 ボクの気の晴れるまで、一緒にいてくれるだけで…」
「ダメヨ…」

遮るように、彼女が答えた。
その端正な美貌に、戸惑いと困惑が入り混じったなんとも言えぬ微妙な、
だが見るものを妙に落ち着かなくさせる微笑が浮かんでいる。
その悲しげなようで、霞むような、何かを訴えかけるその瞳を見ているとまるで吸い込まれそうだ。

「どうして…?」
「……ワタシ、奴隷ダカラ」
「ははは! そんなの理由にならないよ。現にウチには今だって奴隷はたくさんいる。
 ボク仕えの奴隷だけでも数十人はくだらないんだぜ!?」

「そうだ。なんならボクがキミを買い上げて、今すぐ自由の身に…」
「ダメ」
「金の事かい? なら心配しなくていい。こう見えてもボクは…」
「逃げられなイ」
「……!?」
「分らないのネ……フフフ…ワタシは最低、最悪な存在なのヨ…?」
「最低???」

こんなに美しくて綺麗なのに、最低とはどういう事だ? 生まれが卑しいとか?
いや、元より奴隷なんだ。そんな事は別段驚く程のことじゃない。

「……ワタシはきっと奴隷以下…いいえ。多分、人形にさえ劣ル…」
「な、何を言ってるんだい、キミは?」

どこか哀しげで、それでいて厭世的えんせいてきな微笑が一瞬、歪む。

「性奴なのヨ…ワタシは……」

そう言われれば、成る程その容姿だ。
きっと欲に満ちた男達に引っ張りダコの人気者なんだろうさ。
だが、そんな程度でボクは驚くほどネンネじゃないぞ。

「今まで男達の慰み者になってきたから、ってのがその理由なら気にする事ないさ。
 少なくともボクは気にしないよ」
「……」
「大体、この都にいたら性奴程度だからって誰も驚きはしないさ。そこそこの豪商なら屋敷の奥に、
 気に入りの性奴の一人や二人、誰でも召し抱えているもの」
「アナタは、どうなノ…?」
「ボ、ボクかい? い、いや…だってついこの前、成人したばっかりだし、元々そういうヘンな趣味は…」
「あ! だからってバカにするなよ! こう見えてボクだって気に入りの性奴を借り切って、
 延々と相手をさせた事だって一度や二度くらい、あ、あるんだぞ!」

そうさ! ボクだって女郎部屋へ何度か通った事もあるし、娼婦を招いて放蕩に耽った事だってある。
だけど、こんなに綺麗な性奴なんて今まで見たことないぞ。
大抵の性奴は疲れを誤魔化すように使う薬や化粧で、どこかくすんだような薄汚れた印象があるものなのに…
どこをどう見ても、目の前の美少女にそんな影は見当たらなかった。
いや、むしろそこらの娘などじゃ太刀打ち出来ぬ程に可憐で、瑞々しく、美しすぎる。
……と、いうかもしそうだとしたら彼女は極上の性奴じゃないのか?!
噂に聞く帝都に住まう貴族を相手にする極上の娼婦は、体重と同じ重さの砂金の価値があるとかないとか。
まさか、彼女が噂に聞く高級性奴? でも今、自分の事を最低だって言ってたよな? どうしてなんだ?
……ああ、そうか。己の身を薄汚れてしまったと感じているとかか?
だとするなら、元々奴隷じゃなくて人間狩りで辺境からここへ売り飛ばされたのか…
スゴイぞ! ということは、ひょっとするとボクの今まで見聞きした事のない珍しい話や、
辺境の事を知っているかもしれないじゃないか!?

「フフ…そう。坊やに見えて、オマセさんなのネ……」
「でもネ……ワタシはアナタが思ってるような、そんなマトモな性奴じゃないノ…」
「マトモじゃない…?」
「ワタシは性奴の中でも、一番身分ガ卑しくて惨めナ…ううん。きっと、それ以下の奴隷…」

性奴以下の奴隷? なんだ、それは? つまり、娼婦以下って事か?
確かに下級奴隷は色々と細かく等級が分けられてるとかって聞いた事があるような、
ないような… まぁ、どうでもいいや。
ボクが買い上げてやれば何の問題もなくなるんだしな。
どれだけ高値だろうと、ウチの資産で買えない奴隷なんて居やしないんだから。
ましてや等級の低い奴隷なんて、性奴なんて大した値段じゃないだろうに。

「アナタが知ってる性奴より、もっともっと下の存在……きっとヒトでさえなィ…」
「人じゃ、無い…!?」
「ソウ……ワタシは道具……ただ、男達に使われる為だけの人形…」
「……!?」
「フフ……アナタは何も知らないのネ…羨ましいワ…」
「バカにするな! こう見えても、この街の事だったらボクは!」
「ワタシが普段、何を考えているト思ゥ…?」
「え…? 普段??」

奴隷が考える事って言ったら、休息の眠りか? それとも腹一杯になりたいとか?
いやいや。何を差し置いても拘束からの解放じゃないか! そして故郷へ帰れたらって…

「イイエ、全部チガウ…」
「今のが全部ハズレ?!」

そんなボクのマヌケな言葉に笑顔を返す春蘭しゅんらん
その濡れた瞳を、底知れぬ空虚に染めたままに。

「ワタシ、とても汚れてるノ…」
「いいえ、もうどこもかしこも汚れきって綺麗なトコなんて、欠片も残ってナイ…」
「!?」
「この世の出来事は何も分からず、知ることも許されず、知る必要もなイ…思うのは、男のアレだケ…」
「すべき事は男を誘う淫らな踊りと、ワタシを買い上げた男達と閨を共にする事…」
「望まれるままに、命じられるままに貪られ、嬲られ、汚され続け、どこまでもちてイク…」
「男達の欲情を処理するのと引き換えに、脂ぎった銀貨と侮蔑を浴びせかけられる、
 ドン底で蠢く肉穴……ソレがワタシ…」

淡々と語る今、一体どんな感情が彼女の中で渦巻いているのだろうか?
とんでもなく悲惨な事を語っていると言うのに、その表情にも身振りにも、
絶望も悔恨の影も、憤りも感じる事が出来ない。

「コレで分ったでしょう? ワタシはアナタの側に居られないワ…」
「そ、そんな事はないさ! 誰がそんな事決めるんだ!」
「どんな酷い目に遭ってきたのか知らないけれど、ボクがキミを買い上げさえすればもう安心さ!」
「出来る事なら……アナタの側で静かに暮してみたいとも思ウ。けれどそれは叶わぬ事だもノ…」
「何故? どうしてだい?? これ以上、キミだって酷い仕打ちを受けたくは無いだろう?」
「ええ……そうネ……ワタシもイヤ。だけど…」
「だけど…?」
「…ソレを……ワタシも今では、望んでいるカラ…」

目を伏せ、微かに彼女が呟いた。
それまでの無表情が一瞬消え失せ、まるで泣きたいのに涙が出ない、
というような底が見えぬ悲痛さにあふれた表情を見たような気がしたが見間違いだっただろうか?

「え……?!」
「最初は、肌に粟がたつ程のおぞましさに身震いしながラ…」
「手荒な責めに何度となく悶絶し、失神を繰り返す程に肉のつとめは辛く、哀しかったワ…」

ふっ、と笑いながら彼女がボクへ改めてを向ける。
愁いを帯びた優美なからからは、もう何も読みとれない。
この危うい雰囲気を壊したくなくて、ボクはなんと言っていいのか分らず、言葉を探しあぐねていた。

「だけど……それ無しでは、もう生きていけないからだなの……ワタシは…」
「そんな……」
「ワタシはいつだって従順…ただ、受け入れるだけ…」
「従順である事が、それだけがワタシの存在する意味ダカラ…今は…」
「キ、キミは一体……」

何もかも諦めたような、やるせない哀愁に染まったような力無い冷笑。
彼女がその時見せた表情や態度が何を語っていたのか、
本当に理解する事が出来たのは、その後かなりの時を置いての事だ。
全てを受け入れた者に特有の、恭順きょうじゅんの微笑なのだと、その時のボクは気づくことが出来なかった。

「坊や。アナタは何も知らないノね……」
「いいわ…教えてアゲル……ワタシがどんなに惨めで、最低な存在かヲ……」

風向きが変わったのか、戸口から夜風が流れ込んでくる。
澱んでいた空気が微かに動くのを待っていたかのように、春蘭しゅんらんは静かに語り出したのだった━━

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