◆第一章:2 出会い◆

もう4年も経つが、色褪せるどころかますますと想いが募っていく、あの夜の出来事が━━

それはへばりつくような湿った風が吹く、酷く蒸す夜の事だった。
全てを灼きつくす太陽の残していった暑気が、まだそこかしこに漂っている。
普段なら渇ききってザラつく空気は、中庭の樹間を渡る間に濾過ろかされ涼風となってボクを癒してくれるのだが…

「随分と暑いなぁ。今夜はどうやら風向きが悪いや…」

辺りは寂寞せきばくとして人影も無い。
昼間の活気が嘘のように、今は誰かが忘れていった退屈が転がっているように空気は呆けている。
雲が流れて剣のような弦月を隠し、天空が暗黒で塗りつぶされると、
その向こうから無数の星が忍び込んでは小さな穴を開けて瞬いた。
つい先刻まで黒々とした葉叢はむらから月光が射していたが、今は庭園の木々が青く闇に浮き上がっているだけだ。
普段ならこの時間、父は大広間で街の名士達との巧妙かつ実りの多い商談の駆け引きに追われている頃だろう。
だが、今夜は違った。
大広間で華やかな宴会が催されていたのだ。
宴の席には街の名士達や有力な貴族、そして街周りの砂漠を統べる部族の長達も招かれていた。
ついさっきまでこのボクも、大広間で初めて見る旅芸人達の曲芸や舞を、大人達と共にはしゃいで楽しんでいたのだが…

「一体全体、誰の成人を祝う宴なんだか…」

屋敷中を漂う頽廃の空気がより一層に濃度を増していくのを感じながら、ボクは中庭の回廊をとぼとぼと歩いていた。
湿った空気を伝って、耳障りなざわめきがこの物静かな庭園まで聞こえてくる。

「なんだって大人達はみんな、臭くて苦くて後で酷く頭の痛くなるモノを喜んで飲むんだ?
 別にあんなモノ飲めなくたっていいじゃないか…」

結局のところ、珍しく訪れた旅の芸人達相手に大人達は飲めや歌えやの大騒ぎをしたいだけなのだ。
主賓である、このボクを差し置いて。

「少しは面白い話を聞けるかと期待したっていうのにさ…」

大人達との同席を許された初めての宴で聴ける話はどんなだろうと、
期待で胸を膨らましてワクワクしていたのに、その浮ついた気分はあっさりと裏切られてしまった。
交わされる会話といえば、どこの店の奴隷女が美しいとか、どこの何という食べ物が珍しくて旨いとか、
そんな知性も浪漫の欠片もない放埒三昧ほうらつざんまいでくだらない話ばかり。
あれじゃまだ、ラクダ飼いの男に砂漠を渡る時に見聞きした不思議な出来事を聞かせて貰った方がマシだ。
芸人の披露した技は確かに面白かったし物珍しかったけれど、
結局はその踊り子達もすぐに大人達の側にはべらされてしまって、
飲み食いの世話を焼くのに終始する始末じゃ、一体何を楽しみにすればいいと言うんだ?
どうして乱痴気騒ぎに酔い痴れる者達ってのは、決まって回らぬ舌で途切れ途切れの酒神賛歌をガナリ立てるんだろう?
そんな騒音にも、溢れる程の豪華な夕食をヒジをついて黙々と口に運ぶ作業にも、すぐに飽きてしまった。
瑞々しい色とりどりの果実も、肉汁滴る鶏肉の煮込みも、香ばしい焼きたての大麦パンも、
朝採りのキンキンに冷えた西瓜も、甘いココナツ・サラダも、何もかもウンザリだ。

「踊り子を抱き寄せるかヤンヤとはやし立てては、
 淫らな身振りと狂乱の歓喜を提供させようとする野卑な輩が貴族様だって言うんだからな…呆れるよ」

ボクの為だなんていうのは、絶対に体のいい理由付けでしかないに決まってる。
貴族連中だけでなく親族にさえ、骨の髄まで怠け者で、浪費家で、
日々絵空事ばかり考えていて面倒を起こす以外何もしない役立たずなドラ息子だとボクは思われているんだ。

「どうせ……!」

ボクの祖先は、いち早く他人の愚かさに利子を付ける術で巨大な財産を築き上げた成功者の一人であったそうだ。
その商いのしたたかさと首尾の完璧さにかけては、誰も敵う事なき偉人との評判を大昔からずっと勝ち取り続けていた。
特にボクの父は、このカナサスでも指折りの大旦那と呼ばれ、代々受け継いだ祖先の遺した財を元手に、
その商才を生かして幾多の商売に手を伸ばし、
さらなる成功をおさめて財産を莫大な額にまで増やした男として遠方までその名を知られていると聞く。
だからその父に擦り寄ってくる輩が多いのも分るし、
跡取り息子であるボクに見え透いたおべんちゃらを使ってにじり寄ってくる者が後を絶たぬのも十分に理解はしている。
理解はしているが、だからと言って気分のいいものじゃない。
特に内心ではボクの事を嘲っている連中の、上っ面だけの笑顔と美辞麗句は。

「全くゆくゆくはボクも父上の仕事を引き継いで、あんな連中と夜な夜なにこやかに酒を飲み交わし、
 宴を共にしなくちゃならないのかと思うとゾッとする」

そういうわけで下品極まりない騒ぎにほとほと嫌気が差して、宴の席を早々に辞してきたという訳だ。

「アレがこの街を取り仕切る連中の本当の姿だとみんなが知ったら、どんな顔をするんだか…」

長く続く平和は市民生活は大いに繁栄し、享楽に踊っているという。
だが、その弊害は確実にそこかしこに散見出来るし、その確たるものがさっきの連中だろう。

「本当にこの街の貴族達は腐敗しきってる。けど、その筆頭がきっとウチの一族なんだろうな…」

確かにウチは倹約を旨として暮らしているわけじゃない。
ボクだって、いつでも清潔かつ上等な布地でできた衣服を身につけ、
煩わしい下々の事柄は全て奴隷達が処理してくれるに任せていた。
身に積もる外界の砂でさえ、一歩屋敷へ戻ればそそくさと進み出てくる奴隷達が湯と香油で丁寧に拭い取り、清め、
即座に屋敷の内部調度に相応しい格好にしてくれもする。

「これが浪費でなくてなんだと言うのか…」

誰もがボクを有力な一族に生まれつき、一点の曇りもない将来が約束されている、と言う。
街の有力者からなる街の長を選出する選挙もボクの一族の者にとっては単なる形式にしか過ぎず、
もし長に選出されるのに不都合なヘマをやらかしても、
申し分ない一族の力と家系によって常に社会の支配的な地位が用意されている、と。
確かに皆の言う通り、生まれついて統治すべき一族の側に居るのだろう、ボクは。
成人の儀式を終えたと言うのに、未だに学を志して何かしている訳でもないし、
進んで武に秀でようとしているわけでもない。
ゆくゆくは商いを学ばねばならないが、
それすらも代々仕えてきた奴隷頭に仕事を肩代わりさせれば必ずとも修める必要など無いだろう。
一日の大半を趣味と嗜好に使える金品に恵まれ、怠惰に溺れてもなんの支障にもならず、
労せずダラダラと気ままに刻を重ねてきて、出来る事と言えば多少の芸事程度。
と言っても、出来の悪い詩を綴るか、中途半端な風景画を描けるくらいなのだけれど…

「……そうさ。確かにボクは、誰がどう見ても優遇された生活を過ごしているさ!」

けれどその優遇されている毎日を、その生活を本人が望んでいるか、
満足しているかどうかなんて誰が分ると言うんだ!
日々退屈で、少しでも興味が引かれるものに執着するしかない憂鬱な毎日をみんなも味わってみればいいんだ!

「……あれ? なんだ、こんな所に来てしまったじゃないか」

広間を抜け出す時に持ち出してきたナツメ椰子の実の蜂蜜漬けをほおばりながら、
夜の庭園をそぞろ歩いていたらいつのまにか裏門まで来てしまった。
見回りの者も交替でどこかへ行ったのか、宴の準備で人手が足りなくて借り出されたのか、
どういうわけか普段なら幾人か居る奴隷達の姿が見えない。どうりで静かなわけだ。

「まったく、不用心だなぁ」

どうしよう? 部屋へ戻ってフテ寝でもするか? それとも…

「物騒だから子供は出歩くものじゃないと言われて来たけど、もうボクは子供じゃない」

このまま夜の街へくりだそうか、とそんな事を考えていると不意に裏門の戸が軽くノックされた。
空耳じゃない。微かに、軽くだが確かに聞こえた。
規則的に叩くこの音は誰かが訊ねて来た証だ。

「だ、誰だい? こんな時分に、こんな所から……?」

呼びかけに反応したのだろう、音が止む。
少しして、裏門の脇の木戸が微かに軋み、開けられていく。
不意に砂漠を吹き抜けてきた風の音を聞いたような気がした。
まるで何者かの訪れを思わせるような、風の唄を━━

「……!?」

その夜の事がどうしょうもなく未だにボクの心に灼きついている。
あれから長い年月が過ぎ去ったというのに、まだあの不思議な一夜の体験に囚われ、抜け出せない。
性別は無論、人種から身分、過去と未来、互いの人生の全てが克明に相違し、
あたか
も冬の星座と夏の星とのように決して双方が出会う事は無いはずだったのに。
なのにボク等は出会ってしまった。

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