◆序章:3 街◆

ゴトン!


「……!?」


激しく車輪が軋む音で、呆けていた意識が戻る。
全身汗でびっしょり濡れて、狭苦しい馬車小屋の中が蒸れていた。
余程力を入れていたと見えて四肢が強ばって、手を伸ばすと鋭い痛みが走り、半身を起こすだけで一苦労だ。
急なスコールで足止めをくらっていた間にウトウト眠り込んでしまったのだろう。
全身を包み込む迫り来る闇のような絶望感を、汗のにじむ肌を震わせ振り払う。


「……また、アノ夢…カ……」


幾度と無く穴という穴に、断続的に全身至る所へ、誰のものとも分からぬ灼ける濁液をドロドロと浴びせられ、
それを恍惚として受け止め続けるあの感触が蘇り、冷えていく肌が粟立つのが止まらない。
ああ、だけど…悪夢の中で、確かに自分は圧倒的な暴虐に、非情な倒錯行為に、獣じみた交尾に、
その先に待ち受けるドス黒い未来を期待して、どうしょうもなくアソコを疼かせ、淫靡にヒダを蠢かせていた……


「……違うのに…なのに、どうシテ…ワタシ…ウゥ……」


壁の隙間から漏れ込んでくる光りが長い影を投げかけていた。
耳をすませば、激しく馬車小屋の屋根を叩いていた豪雨の音は聞こえず、遠雷が彼方で微かに聞こえるだけだ。
部屋の隅の天井から滲み出した雨水が滴り、床に小さな水溜りをつくっていたが今は小さいなシミになっている。
馬車の車輪から伝わる振動は、水浸しだった土道はもうすっかり渇いてひび割れている事を伝えていた。
それにしても、あんな激しいスコールはつい先月まで留まっていた穏やかな地方では、一生お目にかかれないだろう。
小さな窓から彼方を見やると、雨雲はかなり向こうへ去り、銀のベールのように大地へ降り注いでいる。
河を下っただけでこんなにも辺りの景色だけでなく、季節や天気まで様変わりするのがいつも不思議でしょうがない。
父サンの話では、吐く息がすぐさま凍り付く白い大地の国もあれば、空気が燃える灼熱の国もあるという。
いつかはワタシも、そこへ連れて行かれる事があるのだろうか…?
そこでなら、違った未来があるのだろうか? それとも、そこでさえ同じ…


「……!?」


不意に、どこからか男の濁声と女の哄笑こうしょうが聞こえた気がしたのだ。
身を起こすと、汗と残滓で床板に張り付いていた肌がバリバリと音を立てる。
ワタシを覆う白い膜は、周囲の板間を外皮のように拡がっていた。
粘つく汚れがこびりついた髪から、戯れに吐き捨てられた命の残滓が、薄暗い馬車小屋を粒子となって漂っていく。
えずきそうになるのを手のひらを口に当てて、グッと唾を飲み込むけれど、ドロつく塊がせり上がってくる。
逆流しそうになる胃の中身を、懸命に抑え込む。
吐いちゃダメ! ここで戻したら、せっかく我慢して飲み下したアノ濁液が…


「はぁーっ、はぁーっ…ふぅ……」


何とか抑え込むと、涙で潤む視界の端にソレが見えた。
小屋と唯一外界と繋ぐ小さな窓一杯に、そびえ立つ壁がぐんぐん大きくなってくる。
街だ。


「寝てる間に、着いていたの、ネ…」


揺れる馬車小屋が街へ近づくにつれ、気が滅入っていくのが分かる。
疲れ切った身体を休める事が出来る、ほんのわずかな一時がもうじき終わるのだ。
何度味わっても慣れる事のない、この喪失感と倦怠感━━
前は絶望と悲しみで胸が張り裂けそうだったのに、もう今はそんな風に感じる事もない。
痛痒に耐え、悔し涙で頬を濡らし、呆けた眼差しを、ほんの少し前まではあの小さな小窓へ向けていたのに…


「開門! 旅の一座だ! 恒例の巡業でフィルシーへまた寄越させてもらった!」


大声を上げて兄達が街壁の上から街を護っている兵士達に交渉をしてるのが聞こえる。
いかにも胡散臭いワタシ達のような芸人一座が、足止めされるのもいつも通りの事。
嗚呼。でもいつもと同じように兵士に幾ばくかの金貨を渡し、くたびれた馬車の車輪が回り出すまでワタシは自由だ…
出来る事なら、このまま兵士達がワタシ達を追い返してくれればいいのに…


「なんだ、また来たのか。野盗にでも襲われかと思ったが、よくよく運がいいらしいな一座の!」
「へへ、毎朝のお祈りを欠かした事がないンでね。慈悲深い神様の思し召しって奴でさ」
「お前のような男が祈りぃ? みぇみぇのウソを! まぁ、いい。よし。通れ!」
「へぃ! すぐに領主様の元へ申し出ますんで!」


分かってる。そんな願いが叶うはずもない。
せっかく大雨でいつもより到着が遅れて、いつになく身体を休められたと言うのに、それももうお終いだ。
また哀しく惨めな日々が始まる…
街を囲う要壁に設けられた大きな門が開き、ゆっくりと喧噪渦巻く街の中へ馬車が飲み込まれていく。
一歩うちへ足を踏み入れると分かるが、そびえていた壁の内側は草むす土手になる一歩手前で、端の方は風化してボロボロだ。
さすがに幾百年もの時をけみしていると聞くだけあってかなりの部分が脆く崩れ落ち、自然の造作物になりかけている。
見栄えばかり気にして、内側はぼろぼろに醜い様を晒しているのは、この街を牛耳るあの忌々しい領主そのもののよう。


「オイ。さっきの約束忘れるなよ」
「へへ! 分かってますって。今夜来てくだされば取り置いた上玉を優先的にお使い頂けるようにしときますよ」
「ウチの娘達はどんなご主人様にでも、献身的に仕えられる牝犬になれるよう、
 みっちりしつけておりますから、どうぞご自由にお楽しみ下さい」
「フフ……そいつは楽しみだな」
「男なら誰だって、一晩自由に使い倒したら病みつきになっちまう、とびっきりの快楽肉人形ですよ」


ゴトゴト軋む車輪の騒音に混ざって、兄達と兵士達の下卑た囁きがすぐ脇を通り抜けていく。
そう。いつも男達の間だで交わされる密約だ。
チョット前までワタシも、あの約束を果たす為に借りだされていたっけ…
あの頃は、街へ着くたびに哀しくて哀しくて、泣けてしょうがなかった。
きっと後に続いてる馬車にいる娘達も、これから己の身に降りかかるであろう汚辱に怯え、頬を濡らしている事だろう。


「フフフ…アナタ達…まだ、いい方ヨ……ワタシなんて……」


今はすっかり涙は枯れて、男達がよろこぶ演技でしか流した事は無い。
幾度もなぶられ、もてあそばれてこの身で学んだのだ。
どれだけその場に相応しい仮面をかぶり、心を偽るかを。
いかに男の望む女になりきり、騙し、必要とあれば最も惨めで卑しい存在にさえ成り下がる術を。


「もう涙なんて、流れやしなイ…」


混み合う車道に苛立つのか、脚を踏み鳴らす馬車馬の蹄の音がけたたましく響いた。
ありとあらゆる音が混ざって聞こえ、喧噪が氾濫している。
地肌が剥き出しなのに、踏み固められて石畳で舗装されたよう。
ワタシ達のように長旅の疲れと泥と厳しさが張り付けた人々もそこかしこに見かける。
そして行き交う馬車や人力車でごった返し、人々はもうとっくに歩道なんて歩いてはいない。
通りには様々な言語が飛び交い、魚の焼けた匂いが漂って鼻をつく香と果実の匂いが混ざり合っていた。
売り買いの声や、噂話や、商品の名を連呼する声が混じりあって、
陽気なざわめきを作り、天気の良い夏の日に聞こえる蜜蜂の群れの羽音の音楽のようだ。
ぎゅうぎゅうに軒を連ねる露店には、色とりどりのスパイスや薬草が無造作にカゴに入れられ、
赤や黄色の果物が狭い段々に並べられている。
物や人が集まり、この街が辺境からは想像もつかぬ程に豊かさを享受しているのが分かった。
優雅な透かしの刺繍を織込んだサリー姿の女達は甘い残り香を残し、
大きな荷物を頭の上に乗せて運ぶ男達が只でさえ暑くるしい空気を熱気で満たしている。


「もう一声!」
「いやいや、これ以上安くはできないよ。この絹は遠く中つ国から運ばれて来た一品だよ?!」
「さァさァ! 上等な黒テンの毛皮はいかがかな?」
「もっと安くしとくれよ。こっちはわざわざ北のハルシヲンから足を運んで来てンだ」


様々な聞き慣れぬ言語で飛び交う怒号。下卑た笑い声。密やかな囁き。
土産を物色する旅人。その旅人に群がる物売りの子供達。
そして、街角の影には春を売りたげな、孔雀のように着飾った娘達。
ムッ、とした人の発する臭気と熱で、鼻の奥がむず痒くなってくる。


「ホント…久しぶりにキタ、けど……相変わらず騒々しい街、ネ……」


前に来た時にも感じたのだが、今はハッキリと分かる。
ほかのどこよりも、この街は暑い。そしてかなり臭う。
炎天下で出歩く人もまばらなのに、人々が立てる砂埃で陽光が燦々と降り注いでいる街は、
まるで黄色い毛布をかぶせられたよう……


「……?」


馬車が進む方向を変えるのが感じれた。
小窓から見える道には尾を悠然と振り振り、ゆるりゆるりと貴族を乗せて進む牛車は見あたらない。
粘土が剥がれて日干し煉瓦の露出した、古びた家々が軒を並べている。
きっと混み合う目抜き通りを迂回して、父サンが裏道を進むよう兄達に指示したのだろう。


「気の短い、父サンらしイ…」


もっとも裏道といっても、道は十分に混雑はしていた。
路地から姿を見せてはすぐにサッと姿を消す物乞いの子供達の影。
地べたにゴザを敷き、商品を並べて売る男。
寝そべって水キセルをふかす男。
泥がこびりついた野菜に包丁を振り下ろす物売りの女。
道行く男へ声をかける赤いサリーの女。


「……!」


不意に、あの匂いが鼻先をかすめた。
獣脂や人の出す体臭、唾や家畜の糞の臭いに混じって、暑苦しい街中に立ち昇ったこの匂い。


「間違いナイ…アノ匂いだ…」


その香りは特別な効果のあるモノから放たれる匂いであった。
馬車が通り過ぎる小道で、頭に布を巻き付けた男が愛想笑いを浮かべて果物の出店を開いている。
けれどその微笑みの下で、邪な企みをめぐらしているのは間違いない。
年代物の木箱の台座に、上手く野菜や果物でソレが隠されているのだろう。


「真っ先に…こんないかがわしい匂いに、気が付いてしまうなんテ…」


嫌な予感を抱きながら、街の中央にある領主の元へと馬車はワタシを運ぶ。
街の中央を貫く通りへ途中で合流し、辿り着いたのは巨大な石柱を組んだ門。
暑苦しい町中と違い、緑生い茂る庭は手入れが行き届いて、木陰が涼しげな影をつくりだしている。
立派な御影石の外壁の向こうに、大理石で彩られた豪奢な建物が見えた。
この屋敷が街の治安と市場の管理を司る領主の屋敷だ。


「忘れル…ハズない……」


以前ここを訪れた時、一月近くワタシはこの屋敷の奥深い部屋で寝泊まりしていたのだ。
ワタシだけじゃない。一座の娘達は皆、この屋敷へ滞在させられていた。
表向きは年端もいかぬ娘達を馬車で寝かせるのは忍びない、という慈悲深い領主の計らいだ。
誰もそんな事信じはしないだろうけど…

豊かなこの街を牛耳る領主は、ワタシ達のような弱者や貧困な家の者から“徴税”と称して、
娘達の肉体からだを搾取し貪る獣として、つとに有名であった。
そう。ワタシ達にとって、ここは監獄。
巡業を認める代わりに、一座が滞在する間中ワタシは領主へと貸し出されるのだ。
他の娘達も、代わる代わる街の有力者達の慰み者にされて…
日中、街中で艶やかな踊りを披露し、陽が沈むとこの屋敷へ戻って、
男達の腹の上で、夜の特別な踊を披露する…そんな毎日が続いて…


「きっと…また、ワタシは……」


今夜にでも始まるだろう狂宴を思い、一人哀しくうなだれるしか、ワタシに出来る事など有りはしないのだった…


◆序章 了◆

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