◆第一章:1 蜃気楼の街◆                                    07/04/30UPDATA

天とも地とも区別のつかぬ所在にあるという“蜃気楼しんきろうの都”。
砂の民の間で
まことしやかに囁かれてきた古い古い伝承だ。
その多種多様の尖塔を持った街並みが織りなす凹凸の輪郭は、蒼天に幾何学な美しい模
様をクッキリと描き、
まるで
いざなうように白くきらめいて誰もが目を奪われるという━━

もっとも今では財宝を探し求める冒険者達くらいしか信じる者のない、皆が知る御伽噺でしかないけれど。
そしてここ、オアシスの都カナサスをその“蜃気楼の都”ではないのか? と訪れる旅人達が一度は思うのも無理からぬ話であった。

別に幻でも御伽話でもないここが、その神秘の都に間違われる理由の1つは立地にある。
南に伸びる緑豊かなオアシスがぐるりとここを囲んでいる為、
遠方からだと水面から立ち上る水蒸気のせいで砂上に街の幻影が揺らめぎ、

白い漆喰壁と屋根瓦が太陽に照らされてキラキラと白銀の様に輝いて見えるのだそうだ。
そうでなくてもさっきまで砂塵にまみれていた旅人からすれば、いきなり街中の至る所で緑したたる並木が枝を伸ばし、
ありとあらゆる種類の果樹が
生い茂る風景が飛び込んできたら、そう思ってしまうのも無理ないだろう。

「今日も変わらず澄みきった蒼い空の下、延々と彼方へ伸びる家々が陽炎のようにユラユラと揺れているものな…」

まだ月が変ったばかりだというのに、頭上でギラつく太陽は否応なく熱波を降り注いでいる。
容赦なく照りつけるものだから、昼にはサンダルを履いていてさえ足裏を火傷するほど舗石が灼けついて、
野良猫でさえ日陰から出ない。
オマケに空気はオーブンを開きでもしたようにムンムンしており、乾燥状態が熱と同じように触って確かめられる程だ。
帝国広しといえ、ここ以上に時期を問わず強烈な陽射しでジリジリ
あぶられる街なんて、ちょっと思い浮かばない。

「……ウヘ! とんでもない臭いだ」

思わず呼吸を止めたくなる熱気が、スパイスと牛の糞の匂い混じりに漂ってきた。
間違いなく下水路へ垂れ流される排便やゴミの悪臭が熱さで強さを増し、
澱んだ空気の中に立ち上って裏路地に充満している事だろう。
さっきまで種なしパンの焦げた匂いと、異国の甘ったるい菓子を焼く香りが混ざった胸の悪くなる悪臭が鼻先を掠めていたのだが、
どうやら風向きが変わったようだ。
気がつけば頭上にある埃まみれのハメ殺しの窓が、甲高い風斬り音を奏で始めている。

「まるで遙かな地平へ続く砂丘の向こうから、永劫に続く祈りの
うたが風に乗って聞こえてくるようじゃないか…」

すぐに砂漠を渡る風に乗って、灼ける濃密な空気を震わす音が伝わってきた。
数千人が発する声や、人々の息づかいだ。
陽気な笑い声と飛び交う怒号。
番犬の吠える声。 駄馬が
いななき、荷台に人がぶつかって軋む音。
酒屋の店先の卑猥な歌声。
若い女の悲鳴も聞こえた気がしたが、怯えてなのか愉悦でなのか定かではない。
千切れた旗が風に舞う音がそう聞こえたのだろうか?
本当は錆びた鋼が触れあう耳障りな音だったかもしれない。

「この真昼の営みに
いそしむ街の鼓動を耳にすると、
 ここが“イーソス砂漠の至宝”と言われるのもまんざらじゃないと思えるよな…」

つまり人々はこの炎天下の元でさえ、大きく張った天幕の影で休み無く動き続けていた。
砂漠の真ん中に位置しているとは考えられぬ程、まるで地から湧き出てきたかのように、
そこかしこからここへ商人が集まって来るのだ。
毎日、数え切れぬ幾つものキャラバンが通り過ぎ、それぞれ自分の故郷で採れぬ作物や品々と交換しては運び出していく。
ほんの少し先にある街壁を越えると、困苦の毒味をタップリと味あわせてやろうと言わんばかりに、
肌を刺す熱気と砂埃、そして灼熱の陽光が待ちかまえていると言うのに。
慣れぬ者なら明る過ぎる陽光しと、立ち昇る熱気で不意の眠気に襲われてしまう、あの砂漠へ


「富の香りが漂うように景気がいい街、か…」

ざっと知りうるだけでも、東からは羊などの毛皮、琥珀の珠玉やその他に数々の宝石、
青銅の武具や防具、西からは真鍮や銀の杯、白磁器の数々、それ以外にも各地から織物や胡椒、
ワインやビール、穀物やオリーブ油、数々の香辛料、指環や首飾りなどの装飾品が持ち寄られていると聞く。
そのお陰で、常にここの市場はありとあらゆる種類の肉と、バターに茶、米、小麦粉、
とうもろこし、ジャガ芋、玉葱、大豆、西瓜、珍しい数々の香辛料に瑞々しい果物などで満たされていた。
砂漠ではこの上なく貴重品な塩と魚でさえ、
ここでは比較的容易に手に入れる事が出来るのだからその市場の潤いの程が知れよう。
実際、カナサスには手に入らぬ物などない程、どんな物でも揃っていた。
勿論、物ばかりでなく人間も種々雑多極まりない。
日々、キャラバンの行き交う交易のオアシスならどこでもそうだろうが、白、黒、黄色、赤、
そしてそれらの混血と、肌の色から髪の色まで実に様々で、本当に何でもござれの人種の見本市だ。
そんな訳で色とりどりな人々が一時も同じ所に止まらず、絶えず忙しく賑やかに動き続けているのがここからも良く見える。
ザラついた粗末な麻の服を身につけた半裸の逞しい男達が往来を行き来し、
よくアレで歩けるものだと感心してしまう程多くの荷物を背負った女や、
黄ばんで元が何色か見当もつかぬ薄汚れたターバンの上に荷を乗せた男が去っていく。
本当に世界中からやって来た全ての習慣と言語を持つ人々が交わり、渦を巻いて押し合いへし合いしているようだ。
噂に聞く夜のない街、遙か西方の彼方にある帝都ラ・レムーラに勝る事は無かろうが、
それでもこの広大な砂漠に点在するオアシスの中で、ここ程に雑多な民族が入り乱れている街はまずないだろう。

「遠路遙々やってきた田舎者がこの街の喧噪に打ちのめされて、早々に逃げ出したという噂も耳にするものな…」

このオアシスは良好な地勢を占めていて、あらゆる領域から商業を通じて贅沢さが流れ込んでくるのだ。
いつの頃からか、東方諸国の官能的な豊かさがここの習慣に染み込み、それが西方の退廃的な嗜好と結びついて育まれ、
この街を他のいずこにも増して人々を惹きつける魅力的な場所にしていた。
そして、そんな数々の品物以上にここへ商人達を惹きつける、
ある事をきっかけにボクも良くその実態を知る事になった高価な品がここで集中的に取引されていた。
世界中で一番値の上下が激しく、古来より基準など在ってなきが如しの商品。
ここにはこの砂漠で一番大規模な奴隷市場があるのだ。

「きっと今日もあの薄暗い奴隷市場で、幾人もの女奴隷達が鎖に繋がれて並べられ、売りさばかれているんだろう…」

奴隷と言うと、大抵は髪をぼうぼうと生やした薄汚れた身なりを皆思い浮かべるだろうが、
ここで主に売り買いされる奴隷達は少し毛色が違っている。
金持ち連中の道楽を満たすハーレム用の奴隷がここでは中心に扱われているので皆揃って容姿端麗だが、
それ以上に特異なのはその殆どが人間狩りで捕まった者達ではないという点だ。
そう。皆、辺境どころかこの街から一歩も外へ出たことの無い、ここで生まれ育った者達なのだ。

「金を持った連中というのは、その金を何かに使いたがるものだからここへ集まってくるんだろうさ。それにしたって…」

遠路遙々と売りに連れてこられるのが奴隷の常だが、この頽廃漂う豊楽の都カナサスで売買される、
特に性奴隷の女達は生まれながらに過酷な運命を背負わされていた。
元より容姿の整った奴隷同士を、その意志を無視して何代にも渡り商人達が掛け合わせ、
飼育するのが性奴隷だと大抵の者なら知っていよう。
それだけでも酷い話だが、幾つもの嗜好に偏らせるよう人為的に造り出した奇形に次ぐ奇形を何代にも渡って掛け合わせ、
からだの特定部位を発育させ、その上に魔法と秘薬でもって本来あり得ぬ程のプロポーションや淫ら極まりない性技を仕込まれた
極上の品々に磨き上げられるのだ。

例えば信じられぬ程に細い腰の女だったり、顔や体は子供のままなのに牛のように巨大な張りつめた乳房を揺らす女だったり、
静脈の透ける病的なまでに雪白い肌をした女だったり…
見たことはないが、聞いている話から察するに男の性奴達も似たように酷い境遇のようだ。
そんな己の欲望を満たす為だけの存在に人々は、
特に豊かな者程に金を湯水のように使って性奴達へ手の込んだ嗜好や醜い性癖を戯れに植え付け、
ドス黒い肉欲を貪るにまかせ享楽に溺れている。


「性奴隷売買は
寡占化かせんかの激しい市場と聞く。一体どれ程の財と労力、
 そして罪深い魔術が罪無き少女達に注ぎ込まれたのか、考えるだに恐ろしくなるな……」

聞くところによると、肌理の細かい東方出身の血と体躯の良い西方出身の血を掛け合わせた女奴隷が最近の売れ筋らしい。
もっとも、どんなに美しい女奴隷だろうと飼い主の商人と取引の談話を交わす客を眺めるその瞳は一様に濁り、
ガラス玉のような目を伏せ、皆押し黙ってうなだれているのに変りはないのだが…

「あの渇ききった虚ろな眼差の先に、一体何を見ているんだろう…」

別に幻でも御伽話でもないここが、神秘の都と間違われるもう1つの理由がソレだ。
キャラバンや旅人達にとってオアシスが恵みの地であるように、カナサスは奴隷商人達にとって旨味のある肥沃な土地なのだ。
美食を追求し、飽食に溺れ、財を蕩尽して淫靡な遊びに耽る、ありとあらゆる欲と快楽を味わい、満たす事の出来る頽廃の都。
あらゆる種類の
輿こしや二輪車や荷馬車だけでなく、ロバやラクダ、
馬に乗った人々でひしめく細長い通りが街の四方に走り、入り組む白い石壁の建物で一杯の街。


「外からは、みすぼらしく物騒な連中が押し込められている地区も、
 高い塀で隔絶された裕福な商人や貴族が闊歩する地区も、ここからは等しく白い壁の街並みにしか見えないものな…」

この富める街にも、とんでもなく悲惨な区域はあった。
眼下の隅には荷車一台通るのがやっとの、狭く埃まみれのゴミゴミした道の両側に、
泥煉瓦の壁に粗末な木屋根の伝統的な砂の民風な造りの家々が立ち並んでいる地区が見える。
そのクネクネした街路は昼でも暗く、わずかばかりの方向感覚もすぐに消失してしまうだろう。
そこには泥と疫病が巣くっているような、壊れた戸や板を寄せ集めて造った薄汚い朽ち果てた家々が連なっている。
大抵の建物には家屋番号など無く、殆どの街路には標識すらないので迷路同然で、
不案内な来訪者は元来た道を引き返すのでさえ困難だ。
強欲なモノ売りでさえ声を潜め、喧嘩っ早いチンピラも避けて通る、そんなうらぶれた裏通り。
その路地へ不用意に足を踏み入れたら命を落とすどころか、死にも勝る恐ろしいモノが襲いかかってくるに違いない。
そしてそんな裏路地の奥にある教会で厳かに教えを説く司祭が、実は裏で売春宿を営み、
迷い込んだ旅人達に“毎日凌辱される処女”の手配に大忙し、なんてのも良く聞く話だ。
赤ん坊は生まれたその日に二束三文で売り飛ばされ、金銀細工は混ざりモノだらけ、
柱という柱の影に逃亡奴隷が潜み、場末の娼婦は1年さえも生き永らえる事が叶わない。
性奴隷なんてそれこそ使い捨ての玩具同然で、己の私生児をその悲惨な性奴隷にわざわざ貶めて、
血の繋がった娘の純血を踏みにじるのに興じる不道徳極まりない金持ち連中までいると聞く。


「あの地区の伝統的徳目に“貞淑”なんて項目は
最初ハナから存在などしていない、とはよく言ったものさ」

抜群に繁栄し、そしてその多様性と頽廃さと極悪非道さでもこの街はつとに有名であった。
彩り豊かな碁盤目状の通りでびっしりと軒を連ねている石造りの市場店の裏側には、
この帝国のどこよりも嘘と詐欺、暴力に盗みが横行しているのだ。
富める者と貧しき者、神無き異教者と帝国教徒、古き物と新しき物、最高の品と最低の品━━
極端な富と極端なみすぼらしさが連なり、複雑に絡み合って、あたかも絢爛で艶やかなモザイク画を織り成している街。
そうした矛盾が混在するにも関わらず、いやむしろ混在する幾多の矛盾を内包するからこそ、
この歪んだ価値観に支配された街が秘める活力を、そして後ろめたい刺激を今ではボクも愛していた。


「何より、ここからの展望は実に素晴らしいものな…」

四方へ延々と続く砂丘を見渡す事も出来るし、オアシスに囲まれた緑豊かな美しい眼下の街並みも、空も雲もすぐ側に在る。
創作を志す者は、すべからく静寂と孤独を愛し必要としている、とは有名な詩人の言葉だが、実際にそうボクも思う。
己の心だけを見つめて深い知性の時を慈しむのに、ここ程あつらえ向きの場所はそうないだろう。
喧噪から隔絶され、自分の運命について沈黙思考するにはもってこいだ。

「本当に静かだ…」

このオアシスに幾つか在る小高い丘の上に、その寺院は建っていた。
元は異教徒の教会だったというこの寺院の灰色の壁は、
数千年このかた変らぬかのようにひんやりとした冷気
を孕んたたずんでいる。
歴史的な密やかさを保つ厳粛な雰囲気を醸し出すその影に、たっぷりの湿っぽさと孤独の匂いを充満させて。
古びて錆びてはいるが、
かれると揺るぎない音を響かせるその鐘の音には、太古の王朝時代と変らぬ威厳があった。

「ふぅ……」

不意に通り過ぎた風が、髪の間に溜った熱気をどこかへ吹き飛ばしてくれて少し気分が良くなる。
頬を撫でる、微かに果実の匂いを含む甘い風を吸い込んだ。
まだ幼い頃、高い塔の上から街全体を見下ろすと、
そこにはどんな物語を読んでも味わうことの出来ぬ楽しさを見出す事が出来たものだ。
彼等は一体どこから来て、どこへ行くのだろうか?
どこのどんな国で暮らし、なんの為にはるばるこの街まで赴いたのだろうか?
ここへ到るまでにどんな苦労と困難を乗り越えてきたのだろうか?
ボクの知らぬ彼方の国から、ここへ辿り着いた旅人はいるのだろうか?
眩しすぎる陽光の下では、全ての物がはっきりした輪郭が失い、白と黒だけの世界になってしまうと言う。
地平線から地平線まで大地が全て熱砂で覆われ、あたかも太陽が大地に降り立ったかのように全てが渇き、
干上がっている遙か南にあるという死の国の話だ。
その先へ進むと水平線から顔を出す血の色に濡れそぼる紅く歪んだ太陽が、
果てない海原の彼方では二つに見えるのだそうだ。
遙か彼方でうねる、降り注ぐ硬質な銀光を一面に
ちりばめたような海原の美しさなんて想像もつかない。
絵の具の青を流し込んだように蒼く澄み渡った、“帰らずの海”へ続くという海峡の険しさも。
なにより驚かされたのが、北の最果てにあるという氷の国では一年の半分、陽が沈まないという。
そこは夜でも大地が
かすかな陽光に照らされ、まるで黄昏時のように明とも暗ともつかぬ界が拡がっているのだそうだ。
屋敷に招
かれたキャラバンの長や商人達が幼い頃に聞かせてくれたそんな話の数々が、今もボクの心を捉えて離さない。
錆び付いた羅針と陽に灼け色褪せた地図を片手に、夢と期待を胸に遠方からこの街を訪れた行き交う人々を羨ましく思いながら、
いつもそんな風に想像の翼をはばたかせて過ごして来た。
唯一、誰にも邪魔される事ない、この朽ちた寺院の尖塔のてっぺんからこうして街を見下ろしながら。
そう。彼女と出会うまでは…


「そういえば、
螺鈿らでん細工みたいな月が輝いていたな…」


まだボクが成人の儀式を終えて間もない日。
細く
きらめく三日月つきの刃が、閉じられた闇を切り取ったようなあの夜。
屋敷に旅の一座が招かれ、華麗な演舞が披露された宴を今でもハッキリと覚えている。
その夜、今まで
唯々諾々いいだくだくと父や親族の言うままに過ごしてきたボクの人生を激変させる邂逅かいこうがあったのだから。
世間知らずだった子供のボクを貫いた驚きと恐怖、そしてめくるめく興奮と憐憫の念の数々…
その出会いがもたらした顛末を余すことなく伝えたいが、生憎といささかボクは文才を欠いているようだ。
なので、聞き手を飽きさせる事なく流暢に言葉を紡げる自信が無い。
だから、事実をありのままに伝えよう。
彼女が告げた、数奇な話をそのままに━━


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